Quantcast
Channel: 桃象の観劇書付
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2923

【用語解説】勤皇(きんのう)の志士(しし)

$
0
0

勤王とは

天皇に忠誠を誓って、天皇家の世にする為に

討幕運動を勤める思想です。

「天子様(天皇)の世にする為に、邪魔な幕府を倒す!」と

言う感じです。

 

勤皇= 倒幕(幕府を倒す) に対して  

幕府を佐る(たすける) 佐幕というチームも 勿論あります。

会津藩、新選組などが こっちです。

 

尊王とは

勤王、佐幕と同様に幕末における基本的な思想の一つです。

勤王と重なるところが多いのですが、

勤王と違うところは政治的な意味合いが強い所。

朝廷と天皇の絶対的権力を認めて、

朝廷中心の政治に戻そうと言う思想です。

 

 

リーが来航してからの日本は

開国か?それとも攘夷(外国人を追い出す)か?で

国論が真っ2つに分かれることになります。

長州藩は 最初のうちは公武合体派

(「公」朝廷と「武」幕府が力を合わせて外国に対抗する)に

傾きつつありましたが、

後に攘夷派が長州藩のリーダー的存在になっていったことから

長州は攘夷派へと移り変わってきます。

そして、外国船を長州藩単独で砲撃するなど

過激な行動を起していくようになりますが、

この長州藩の急進的な行動や朝廷での影響力の拡大を

孝明天皇は快く思いませんでした。

そこで公武合体派の薩摩藩、会津藩の意見に

孝明天皇も耳を傾け、遂に攘夷派を京都・朝廷から

追い出すことになるのです。

 



さらに長州藩に追い討ちをかけたのが池田屋事件。

長州、土佐、熊本藩らの攘夷派が

過激な計画を立てているとして

新撰組が旅館・池田屋に乗り込んだ出来事です。

これによって長州藩では多数の藩士が亡くなることになります。

そして、長州藩が失地回復のために京都に乗り込み

罪の回復を要求することになるのですが

受け止めてもらえず、

 

かくして長州藩は公武合体派の排除、

京都奪取の決行に踏み切ります。

これが 禁門の変です。

 

 

1864年7月19日。

長州藩と会津藩が京都蛤門付近で激突!

福岡藩が守る中立売門では長州藩が門を突破し

京都御所内に入り優勢になるも、

その後、西郷隆盛率いる薩摩藩が

この戦いに介入すると形勢は逆転となり

長州藩は敗北することになるのでした。

この禁門の変で長州勢は逃走の際に

火を放ち大火事となったことから

京都の人々から恨まれることになり、

さらに御所内に向け発砲したため

「朝敵」となってしまいました。

 

 

長州藩を主体とした尊皇攘夷派は 一転して朝敵となり、

 

一方活躍著しい新撰組は、幕府からその実力を認められ、

京都治安の一翼を担う存在となり 最盛期を迎えます。
 

しかし時代は激動の最中である。

尊皇攘夷の魁 水戸天狗党は、筑波山に挙兵して、

上京を目指したが年末に加賀藩に投降した。

 

加賀藩に 降伏した天狗党は 現在の 駿河市にあった

ニシン蔵へ 収容され 手かせ足かせをされたあげく

最後には 処刑されたと言います

 

彼らの処分は、翌元治2年(慶応元年)2月4日に、

斬首352名という大粛清であった。

 

幕府による尊王論者へのこの対応によって、

世論は攘夷から倒幕へと流れを変え始めた。

 

 

この 水戸天狗党の中の数人が 加賀藩との戦のおり

命かながら 日本海へ飛び込んだのでしょう

 

 

お芝居 「芸者の意気地」 に  登場する

七尾浜に打ち上げられた 勤皇の志士 とは

 

おそらく 水戸の天狗党の人だと 思われます


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2923

Trending Articles