勤王とは
天皇に忠誠を誓って、天皇家の世にする為に
討幕運動を勤める思想です。
「天子様(天皇)の世にする為に、邪魔な幕府を倒す!」と
言う感じです。
勤皇= 倒幕(幕府を倒す) に対して
幕府を佐る(たすける) 佐幕というチームも 勿論あります。
会津藩、新選組などが こっちです。
尊王とは
勤王、佐幕と同様に幕末における基本的な思想の一つです。
勤王と重なるところが多いのですが、
勤王と違うところは政治的な意味合いが強い所。
朝廷と天皇の絶対的権力を認めて、
朝廷中心の政治に戻そうと言う思想です。
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ペリーが来航してからの日本は
開国か?それとも攘夷(外国人を追い出す)か?で
国論が真っ2つに分かれることになります。
長州藩は 最初のうちは公武合体派
(「公」朝廷と「武」幕府が力を合わせて外国に対抗する)に
傾きつつありましたが、
後に攘夷派が長州藩のリーダー的存在になっていったことから
長州は攘夷派へと移り変わってきます。
そして、外国船を長州藩単独で砲撃するなど
過激な行動を起していくようになりますが、
この長州藩の急進的な行動や朝廷での影響力の拡大を
孝明天皇は快く思いませんでした。
そこで公武合体派の薩摩藩、会津藩の意見に
孝明天皇も耳を傾け、遂に攘夷派を京都・朝廷から
追い出すことになるのです。
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さらに長州藩に追い討ちをかけたのが池田屋事件。
長州、土佐、熊本藩らの攘夷派が
過激な計画を立てているとして
新撰組が旅館・池田屋に乗り込んだ出来事です。
これによって長州藩では多数の藩士が亡くなることになります。
そして、長州藩が失地回復のために京都に乗り込み
罪の回復を要求することになるのですが
受け止めてもらえず、
かくして長州藩は公武合体派の排除、
京都奪取の決行に踏み切ります。
これが 禁門の変です。
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1864年7月19日。
長州藩と会津藩が京都蛤門付近で激突!
福岡藩が守る中立売門では長州藩が門を突破し
京都御所内に入り優勢になるも、
その後、西郷隆盛率いる薩摩藩が
この戦いに介入すると形勢は逆転となり
長州藩は敗北することになるのでした。
この禁門の変で長州勢は逃走の際に
火を放ち大火事となったことから
京都の人々から恨まれることになり、
さらに御所内に向け発砲したため
「朝敵」となってしまいました。
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長州藩を主体とした尊皇攘夷派は 一転して朝敵となり、
一方活躍著しい新撰組は、幕府からその実力を認められ、
京都治安の一翼を担う存在となり 最盛期を迎えます。
しかし時代は激動の最中である。
尊皇攘夷の魁 水戸天狗党は、筑波山に挙兵して、
上京を目指したが年末に加賀藩に投降した。
加賀藩に 降伏した天狗党は 現在の 駿河市にあった
ニシン蔵へ 収容され 手かせ足かせをされたあげく
最後には 処刑されたと言います
彼らの処分は、翌元治2年(慶応元年)2月4日に、
斬首352名という大粛清であった。
幕府による尊王論者へのこの対応によって、
世論は攘夷から倒幕へと流れを変え始めた。
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この 水戸天狗党の中の数人が 加賀藩との戦のおり
命かながら 日本海へ飛び込んだのでしょう
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お芝居 「芸者の意気地」 に 登場する
七尾浜に打ち上げられた 勤皇の志士 とは
おそらく 水戸の天狗党の人だと 思われます