■ ラスト 「瞼の母」
水熊 女将 おはま 光乃みな
おはまの娘 お登勢 星乃ななみ
水熊 女中 おふみ 京乃そら
水熊 板前 善三郎 京乃廉
素盲の金五郎 城麗斗
浪人 鳥羽田要助 京乃健次郎
番場の忠太郎 都京弥
■ 第一場 おはまの居間
忠太郎 ご免蒙りますでござんす。
おはま さあ、何とか云わないのか。用があって来たんだろう。
忠太郎 へえ、申しますでござんす。
おはま 何だよ。
忠太郎 おかみさん――当って砕ける気持ちで、失礼な事をお尋ね申しとうござんす。おかみさんはもしや、あッしぐらいの年頃の男の子を持った憶えはござんせんか。無躾とは重々存じながら、それが承わりてえのでござんす。
忠太郎
あッ おかみさんは憶えがあるんだ
ところは
江州(ごうしゅう)
阪田(さかた)の郡(ごおり)、
醒が井(さめがい)
から南へ一里、
磨針峠(すりはりとうげ)
の
山の宿場で番場(ばんば)
という処がござんす。
そこのあッしは。
おはま 番場宿なら知ってますとも、それがどうしたというのだね。
忠太郎 え? おきなが屋忠兵衛という、
六代つづいた旅籠屋をご存じでござんすか。
おはま ああ知っている段か、
あたしが若い時にかたづいたことがある。
忠太郎 おッかさん。
おはま 何だいこの人は、変な真似をおしでない。
忠太郎
ご免なさい、無躾でござんした。
おはま お前さんは一体だれだね。
忠太郎 忠太郎でござんす。
おはま 何をいうんだ。忠太郎だって?
あたしには生き別れをした忠太郎という子はあったが、今ではもう亡くなった。
忠太郎 えッ無え。無えのでござんすか
五つの時に縁が切れて二十余年。もうちッとで満三十年だ。
その間音信不通で互いに生き死にさえ知らずにいた仲だから、
そんな子はねえという気になっているのでござんすか、
縁は切れても血は繋がる。
切って切れねえ母子の間は、眼に見えねえが結びついて、
互いの一生を離れやしねえ、
あッしは江州番場宿のおきなが屋の倅、
忠太郎でござんすおッかさん。
おはま お待ちお待ち。お前さん、
大層よく番場のことを知っているが、いくらあたしにそんな話を
したって駄目だよ。
忠太郎 えッ。
おはま 成程あたしは美濃の加納の叔父の世話で、
番場のおきなが屋へ嫁に行き、忠太郎という子を生んだよ。
忠太郎 その忠太郎があッしなん――。
おはま よくお聞きというんだ。その子が五ツになった時、あたしゃおきなが屋を出てしまったんだ。
忠太郎 おやじはあッしが十二の時、病って死にましたから、
直に聞いた訳ではねえが、おッかさんが家を出なさる時、
おやじの身持ちがよくなかった、罪はおやじにあったのだと、
大きくなってから聞いております。
おはま 可愛い子があるのだもの、去り状をとりたくないのが本心だったが、行きがかりが妙にコジれ、とうとうあたしは縁が切れた
その後つづいて永い間、江戸の空の下から
江州(ごうしゅう)は、
あっちの方かと朝に晩に、
見えもしない雲の下の番場の方を見て泣き暮したっけ。
忠太郎 五つといえばちッたあ物も判ろうに、
生みの母の俤を、思い出そうと気ばかり逸るが、顔にとんと憶えがねえ。何て馬鹿な生れつきだと、自分を悔んで永え間、雲を掴むと同じように、手がかりなしで探している中に、おッかさんあッしも三十を越しましてござんす。
おはま お黙り。お前はあたしの生みの子とは違っているよ。何をいい加減なことをいってくるのだ。
忠太郎 えッ、ち、違ってる。あッしが忠太郎じゃねえのでござんすか。
おはま 名前は忠太郎かも知れないよ。生れた処も江州の番場宿か知らないが。
忠太郎 じゃ矢ッ張りあッしは。
おはま 傍へくるな図々しい奴だ。あたしの子の忠太郎は、九ツの時、はやり病で死んでしまったと聞いている。死んだ子の年を数える親心で、生きていたらあの子も今年三十二、いや一だったと、ゆうべも夜中に眼がさめて思い出していたくらいだ。お前がいくら何といっても、生みの母のあたしが見て、そうじゃないと思うのだもの。お帰り。さッさと帰った方がためなんだよ。
忠太郎 九ツの時に死にはぐったことは、正にあッしも憶えています。死んだというのは間違いで、忠太郎はこの通り、生きています。
おはま そんな手で這い込みはしないがいい。
忠太郎 這い込み。そうか、あっしを銭貰いだと思うのでござんすか。
おはま それでなくて何だい。
忠太郎 違う違う違います。銭金づくで名乗って来たのじゃござんせん。シガねえ姿はしていても、忠太郎は不自由はしてねえのでござんす。(胴巻を出し百両を前に)顔も知らねえ母親に、縁があって邂逅って、ゆたかに暮していればいいが、もしひょッと貧乏に苦しんででも居るのだったら、手土産代りと心がけて、何があっても手を付けず、この百両は永えこと、抱いてぬくめて来たのでござんす。見れば立派な大世帯、使っている人の数も夥しい料理茶屋の女主人におッかさんはなってるのかと、さっきからあッしは安心していたが、金が溜っているだけに、何かにつけて用心深く、現在の子を捉まえても疑ってみる気になりてえのか、おッかさんそりゃあ怨みだ、あッしは怨みますよ。
おはま 怨むのは此方の方だ。娘をたよりに楽しみに、毎日毎日面白く、暮している処へひょッくりと、飛んでもない男が出て来て、死んだ筈の忠太郎が生きています私ですと。お前、家の中へ波風を立てに来たんだ。
忠太郎 そ、そりゃ非道いやおッかさん。
おはま また、おッかさんなんて云うのか。
忠太郎 おッかさんに違えねえのでござんす。
おはま お前の心はわかっているよ。忠太郎と名乗って出て、お登世へ譲る水熊の身代に眼をつけて、半分貰う魂胆なんだ。
忠太郎 ええッ。
おはま 世間の表も裏も、さんざん見て来たあたしに、
そのくらいの事が判らないでどうするものか。
忠太郎 おかみさん。もう一度更めて念を押しますでござんす。
江州番場宿の忠太郎という者に憶えはねえんでござんすね。
おかみさんの生みの子の忠太郎は
あッしじゃねえと仰有るのでござんすね。
おはま そう――そうだよ。
あたしにゃ男の子があったけれと、もう死んだと聞いているし、
この心の中でも永い間死んだと思って来たのだから、
今更、その子が生き返って来ても嬉しいとは思えないんだよ。
忠太郎 別れて永え永え年月を、
別ッ個に暮してくると、こんなにまで双方の心に開きが出来るものか。親の心子知らずとは、よく人がいう奴だが、俺にゃその諺が逆様で、これ程慕う子の心が、親の心には通じねえのだ。
おはま 忠太郎さん。
忠太郎 何でござんす。
おはま もしあたしが母親だといったら、お前さんどうおしだ。
忠太郎 それを聞いてどうするんでござんす。
あっしには判っている。おかみさんは今穏かに暮しているのが楽しいのだ。その穏かさ楽しさに、水も油も差して貰いたくねえ――そうなんだ判ってらあ。小三十年も前のことあ、とうに忘れた夢なんだろう。
親といい、子というものは、こんな風でいいものか。
おはま それ程よく得心しているのなら、
強って親子といわないで、早く帰っておくれでないか。
忠太郎 近い者ほど可愛くて、遠く放れりゃ疎くなるのが人情なのか。
おはま だれにしても女親は我が子を思わずにいるものかね。
だがねえ、我が子にもよりけりだ
忠太郎さん、お前さんも親を尋ねるのなら、
何故堅気になっていないのだえ。
忠太郎 おかみさん。そのお指図は辞退すらあ。
親に放れた小僧ッ子がグレたを叱るは少し無理。
堅気になるのは遅蒔きでござんす。
ヤクザ渡世の古沼へ足も脛まで突ッ込んで、
洗ったってもう落ちッこねえ旅にん癖がついてしまって、
何の今更堅気になれよう。
よし、堅気で辛抱したとて、喜んでくれる人でもあることか
裸一貫たった一人じゃござんせんか。
ハハハハ。儘よ。
身の置きどころは六十余州の、
どこといって決まりのねえ空の下を飛んで歩く旅にんに逆戻り、
股旅草鞋を直ぐにも穿こうか。
長え間のお邪魔でござんした。
それじゃおかみさんご機嫌よう、
二度と忠太郎は参りやしません
愚痴をいうじゃねえけれど、夫婦は二世、親子は一世と、
だれが云い出したか、身に沁みらあ。
忠太郎 おかみさんにゃ娘さんがあるらしいが、
一と目逢いてえ――それも愚痴か。
自分ばかりが勝手次第に、ああかこうかと夢をかいて、
母や妹を恋しがっても、
そっちとこっちは立つ瀬が別ッ個
考えてみりゃあ俺も馬鹿よ、
幼い時に別れた生みの母は、
こう瞼の上下ぴッたり合せ、思い出しゃあ
絵で描くように見えてたものを
わざわざ骨を折って消してしまった。
おかみさんご免なさんせ。