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Channel: 桃象の観劇書付
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【用語解説】赤沢宿 (あかさわしゅく) 

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赤沢は中世のころから

聖地身延山と霊場七面山とを結ぶ参道の宿場として知られてきた。
江戸初期、徳川家康の側室お万の方の功績により、

七面山の女人禁制が解かれ、身延講などが盛んになるにつれ、

七面山への参拝者が急増し

赤沢の旅籠、強力、駕籠人足を利用する人たちも多く、

宿場として活気があった。

 

<山梨県 早川町HP  赤沢重要伝統的建造物群保存地区 説明>

 

 

 

江戸時代の中頃になると、

信仰を理由にした旅行が急に盛んになり、信仰にかこつけての

物見遊山も始まったとか。

 

富士講は富士登山、身延講は久遠寺参りと身延山・七面山登山、

伊勢講は皇大神宮参詣など、

白装束に桧笠、手っ甲、脚絆、草鞋履き姿の大勢が旅をした。
 

山岳信仰の霊場であった七面山は、

江戸を中心に組織された身延講の発達とともに

一段と七面山参詣が活気を呈した。

 

七面山への参詣が身延山参詣とセットで行われ、

身延山久遠寺に詣でた人々は奥の院を経て、

赤沢宿を通り春木川を渡ってから再度表参道を登って

七面山山頂に達した。
 

赤沢は山岳霊場身延山(1152m)から

七面山(1982m)へ登る唯一の道筋の、

唯一の宿場町として開けた。

赤沢は身延山から下ってきて、春木川に下る直前の山腹にしがみついた宿場である。
明治初期の赤沢宿には九軒の旅館があった。

 


お芝居「二人忠治」に 出てくる赤沢の親分さん。
 

偽忠治に 金を 出せと言われた際に、
「カイコのあてが 外れたから 金が無い」と 

嘘の説明をします。
 
カイコのあて とは 何かと言うと 蚕を飼って その マユから
絹糸を作る、養蚕(ようさん)の 事でございます。
 
江戸時代 前期までは 絹というのは 中国からの輸入品が
ほとんどやそうで、その支払いに 銅が あてられ
その結果 日本の銅が いちじるしく減る 傾向にあったそうで

江戸幕府は それを 食い止めるために 日本での 絹の生産に
力をいれ、養蚕を 奨励したんやそうで

特に上州では 養蚕が盛んだったそうです。

 

ただ蚕は 気温の変化に弱いため、
江戸後期に 品種改良や 生育指南の書物が出来るまでは
失敗も おおかったんやそうでございます。

 

↓ 赤沢に 残る 重要文化財建造物 養蚕農家 

 

 

 

 


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