東海道五十三次一番の親宿
「品川宿」が制定されたのは慶長6年(1601年)のこと。
享保期に出来た歩行新宿(かちしんじゅく)で構成され、
南北に長い宿で長さ4,4キロで
天保14年(1853)の記録では、宿の数1561軒の内、
普通の旅籠(平旅籠)が19軒。
それ以外は 飯盛りをおく旅籠 ということ。
つまり、岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)として
賑わっていたそうです。
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品川を代表する遊郭が 「相模屋」。
その 相模屋さん 外壁が土蔵の様な
海鼠壁(なまこかべ)だったらしく 「土蔵相模」と 呼ばれたそうです。
<昭和初期撮影の 相模楼>
江戸中期の万治年間(1660頃)「江戸名所記」では、
「品川の宿には、遊女おほし、旅人のとをるとき、
手あらひける女のはしり出てまねきとむる」
と有り、幕末には遊女の数は1400人くらいになった。
宅子らも、つい「三味線ひきてうたふなるが、いとおもしろき」
品川遊郭は吉原とは違い、
何も気取らず気楽に楽しめるとあって遊びに来る人も
多かったんだそうです。
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さて その「相模屋」
落語 「居残り佐平次」の舞台が ここです。
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貧乏人たちが集まる長屋で、
その一人・佐平次という男が品川宿の遊郭に行こうと周りを誘う。
当然、貧乏長屋の住人らに遊郭で遊ぶような金はないが、
佐平次は気にするなという。
品川の遊郭にやってきた一同は、
佐平次を信じて飲めや歌えで遊び尽くし、一泊する。
翌朝、佐平次は理由をつけて
自分はもう一泊する旨を仲間に告げ、皆を帰してしまう。
その後、勘定にやってきた店の者に佐平次は、
先程帰った仲間が代金を持ってくるなどと言ってはぐらかし、
今度は一人で飲めや歌えで遊び、また一泊する。
翌日になり、再び店の者が勘定にやってくるが、
やはり佐平次ははぐらかし、また同様に一泊する。
やがて痺れを切らした店の者に詰問されると、
佐平次はまったく悪びれず
「金は無い」「仲間は来ない」と答える。
店が騒然となる中、佐平次はまったく慌てず
自ら布団部屋に入り「居残り」となる。
という 発端から始まる お話しでございます
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「居残り」とは、
遊郭において代金を支払えなかった場合、
代わりの者(一緒に来た者や家族など)が代金を支払うまで、
その身柄を拘束したことを言う。
行灯部屋や布団部屋といった納戸に軟禁されるのが普通。