相川は 青い丸の位置。
■
佐渡金山が 華やかなりし頃、
時の幕府は、鉱山労働者を確保するために、
相川に歓楽街を設置し それを手厚く保護した。
労働者の労働後の楽しみと言えば、
飲む 打つ買うである。
佐渡の遊郭は、江戸の吉原よりも先に
できたと言います。
寛永21年(1644)の
遊女税取立帳である「佐州相河雇役納御帳」にのる
相川の山先町は、傾城屋(けいせいや)が16軒、
遊女42人の名前、生国が記載されている。
延宝6年(1678)の書物「色道大鏡」には
三大遊廓として京都島原、長崎丸山町、佐洲鮎川山崎町の
名前が記載されている。
享保2年(1717)7月に、すべての遊女屋が、
相川の水金町へ集団移転して出来たのが水金遊廓。
移転時くるわ数は11軒、遊女は30人余。
11軒の楼名、「夷屋」、「平野屋」、「海老屋」、「大黒屋」、「坂本屋」、「蔦屋」、「松阪屋」、「板橋屋」、「東屋」、「松本屋」、「桑名屋」。
遊女は16才から26才までの44名。
慶長年間に幕府が「公許」して生まれたくるわであり、
その由緒を伝えて吉原ふうにみな源氏名を用いている。
「若菊」、「東雲」、「梅ケ枝」、「夕霧」などがその源氏名。
遊女の出身地は身売証文などから江戸時代には、
島内の娘達がほとんどだったらしい
■
遊郭に身を投ずる遊女は、
佐渡の貧しい 家庭に育った娘がほとんどであり
彼女らには、苦界に身を置いて居ると言う意識は
ほとんど無かったと 言います。
その理由は二つ。
一つは、貧しさからの解放である。
彼女らには、着物、風呂、化粧、食事の心配が無く、
しかも遊郭経営者により手厚く保護された。
二つ目は、江戸時代に広まった儒教の影響で、
親孝行の意識があったからである。
■
親が娘を遊郭に預けると前貸し金をもらえる。
遊女は10年間の年期奉公だが、
その間の賃金は、全てそれらの利息の支払いに当てられる。
だから遊郭を出るためには、前貸し金の
支払いが必要であった。
それが支払えない場合は、
遊女は再び遊郭で働き続けなければならない。
何とも悲し い話ではあるが、当時の佐渡では、
それでも遊郭に身売りする娘は大勢いたそうな
■
劇団都の お芝居「おけさ悲しや男唄」での
会話の中に そういった 相川 が 登場します