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Channel: 桃象の観劇書付
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伴天連物語を考えてみる ①

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伴天連弾圧のため 両親が役人に捕まり 処刑され  
子供達 3人は すんでのところを逃げて
江戸へ向かうことにした。

その道中、芸州広島で
祭りの神輿と群衆にまぎれてしまって
手をつないでいたはずなのに
三人は 別れ別れになってしまった、

そして 数年後 この三人が 

数奇な運命に導かれ 再会・・・

 

というお話しでございます

 

 

この話の 「広島の祭り」を 掘り下げてみると

非常に興味深いことが わかります。

 

江戸時代の広島を代表した祭りに

「通り御祭礼」というのがあったそうで

花や人形などで華やかに飾った山車を曳き、
賑やかな笛太鼓の音曲や子供歌舞伎などが
町中を練り歩く 大行列が江戸時代より
徳川家康没後50年ごとに行われてきました。 


しかしながら

幕末の混乱により 文化12年(1815年)を 最後に 
この「通り御祭礼」が途絶えたんやそうですが 
昨年10月200年ぶりに復活したんだそうです


この お祭りの行列というのが 
2000人規模だったそうでございますから
かなりの ビッグイベントだったということでございます
 


 
「江戸幕府を開いた徳川家康をまつる広島東照宮。
家康の孫で2代広島藩主浅野光晟(みつあきら)が
1648年に創建した。
50年に初の大規模な祭礼が営まれ、通り御祭礼は
家康没後50年の66年が始まりといわれている。
同藩の地誌「知新集」は、沿道にあふれた城下や
遠方からの見物客は「幾十万」と当時のにぎわいをつづる。 」
                                                       <中国新聞>

 



一方 キリシタン弾圧は というと 

徳川家康が亡くなったのが 1616年
権力は 将軍秀忠に集中し 
家康の作った幕藩体制の基礎を固めに入った
秀忠はキリスト教禁制も強化していく。
 

3代将軍の家光の1629年のころから、
キリスト教徒を発見するため、踏み絵(ふみえ)を用いた
絵踏み(えふみ)が行われるようになったそうです

この時代、キリスト教は禁止されていたが、かくれてキリスト教を信じる「隠れキリシタン」(かくれキリシタン)がいた。このような隠れキリシタンを取り締まるため、幕府は人々にキリストやマリアなどが描かれた銅板の踏み絵(ふみえ)を踏ませるという、絵踏み(えふみ)をさせて、絵踏みをしないものはキリシタンであるとして処罰した。


1637年 九州の島原半島、長崎県)や天草島(あまくさじま、熊本県)で、キリスト教の信者の農民3万人あまりによる反乱が起きる。
農民の反乱の理由は、禁教によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などへの反乱である。

そのあと 禁教は強化され1650年ごろになると 100人規模で処刑されたりといった
記載も残されているようです

長崎大村藩の人物が発端となって 「群崩れ」という事件があったそうな 

明暦3年(1657年)のある日、長崎に住んでいた池尻理左衛門は、
大村から遊びに来ていた知人から次のようなことを聞きました。
「郡村の矢次という所に、天草四郎の生まれ変わりという神童が現れてのう。
その神童は萱瀬村の山奥に不思議な絵を隠し持って、実に奇妙な術を説くんだそうじゃ。もしおまえさんがこの術を見たければ、そこにつれていってもよいが、どうじゃな。」

こう語ったのは大村の郡村に住む兵作という男でした。
話を聞いた理左衛門は、すぐにキリシタンだとわかりました。
そこで、聞き流しておいては大変と思い、
すぐに町役人に知らせました。

そして、その話を受けた長崎奉行は早速、兵作を取り押さえました。
長崎奉行からただちに使いが大村へ飛び、
藩内にキリシタンがいるらしいという知らせに、
大村城内は大騒ぎになりました。

そして連日、兵作の妻子や近親者、萱瀬の山中の隠れ家に
集まっていた者たちが次々と捕らえられました。
天草四郎の再来と呼ばれた少年は、名を六左衛門といい、
その家族が中心となって、
ひそかにキリスト教の信仰を続けていたのです。

それは、長年の間に日本の習俗などと交じりあって、
まじないのようになり、その力で多くの信者を引きつけていました。
信者たちが集まった場所は、萱瀬の仏の谷にある十畳敷きほどの岩陰でした。

事件は日を追うごとに、郡村、萱瀬村、江の串村、千綿村へと広がり、
ついに逮捕者は603名にものぼりました。
取り調べの結果、疑いの晴れた者99名、永牢者20名、
取り調べ中病死した者78名、そして残り406名が打ち首と決まりました。
打ち首になる者はあまりにもその数が多かったため、

各地に分けて処刑することとなりました。
大村では131名、長崎118名、佐賀37名、平戸64名、島原56名と
それぞれの地で処刑されました。


このように島原の乱以降
各地で キリシタン弾圧が厳しくなっていき

 

特に 激しい弾圧が行われたのは 

1637年から 50年前後>

 



これらを 踏まえて 考えると  

芸州広島の祭りとは 
1666年の 「通り御祭礼」ではなかったんだろうか
と 考えられるわけでございます 


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