江戸時代の 博徒には相撲崩れが多いんですよ。
安東の文吉兄弟 平井の亀吉(雲風) 御幸山の鎌太郎
寺津の治助(今天狗) 飯岡助五郎 笹川の繁蔵
勢力富五郎など。
次郎長の子分にも 大政と相撲常がいます
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講談や浪曲では大政は尾張の武士上がりとなっているが、
実際は知多半島常滑の回船問屋の長男、
本名は原田熊蔵、寺子屋で読み書きを習い、
長じて町道場で剣術・槍術を習い、
大男であったので、いつしか田舎相撲に入り、
家業を捨てて巡業をしたりしている間に、
自然に飲む、打つ、買うという道楽に手をだし、
最後は博徒となって、次郎長の子分となり、
後に養子として山本政五郎を名乗った。
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この当時、相撲取りになることは、
百姓町人の身分制度の枠を超えて
立身できるわずかな道であって、
子供たちの憧れと夢であった。
つまり、自らの実力で幅を利かせられる世界が
相撲取りであり、江戸相撲の関取ともなれば、
有力大名のお抱え力士となって、
名字帯刀免許を射止めることも可能であった。
今でいえば、プロ野球かプロサッカー選手になって、
世界に羽ばたく夢が、
江戸時代は相撲取りになることで、
全国各地から力自慢の子供たちが相撲部屋に入門した。
しかし、相撲部屋には博打はつきもの。
大政のように巡業を通じて、身を持ち崩し、
相撲の世界から追放されれば、
元の堅気の仕事に戻ることは難しく、
結局、無宿・博徒に身を投じることが多かった。
ということは、相撲界は、
博徒世界へ人材を供給する機能を
果たしてもいたともいえる。
また、その結果として、
相撲巡業をするにあたって、
その運営の裏方として博徒世界が関与していることは、
ついこの間までの常識であり、
昔から密接なつながりを持っていた。