塩原多助一代記(しおばら たすけ いちだいき)は、
初代三遊亭圓朝が創作した落語・人情噺。
明治11年(1878年)の作。
実在の塩原太助をモデルにした立身出世物語。
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「塩原多助序」
上州沼田に300石の田地を有する豊かな塩原家の養子多助は、
養父角右衛門の後添えお亀の連れ子お栄と夫婦になった。
しかし、角右衛門の死後まもなく、母子は寺詣りの帰り道、
暴漢に襲われ、それを助けたのが原丹治という武士であった。
お礼をしたいと原丹治を家に招待したが、
その後ちょくちょく出入りするようになった。
原(はら)丹治、丹三郎の父子を家に誘い入れ、お亀は丹治と、
お栄は丹三郎とそれぞれ不義を重ねるようになる。
お家の為と見て見ぬ振りをしていたが、
色と欲とで目の眩んだお亀は、丹治をそそのかし、
多助を殺すべく相談をもちかけた。
「青との別れ」
両5粒で買い求めた馬、青を連れて元村まで使いに出した。
帰りは四つ(夜10時過ぎ)になるので、
目印は馬に塩原と書いた桐油を着けて行かせるから、
庚申塚で切ってしまおうと打ち合わせていた。
庚申塚近くになると青は後ずさりして動かなくなった。
どんな事をしても動かないが、
そこに友人の御膳龍(ごぜんかご)をしょった
円次郎が通りかかって青を引くと動いた。
で、多助が引くと動かない。
円次郎が青を引いて、多助は御膳龍をしょって、
それぞれの家に届ける事になった。
円次郎は庚申塚でめった切りにされて絶命し、
多助は何も知らず帰り着くとお亀はびっくりしたが、
次の手を考え始めた。
ある夜、青が激しくいななくので厩に行ってみると、
原丹治、丹三郎の父子を見て、
青が見た下手人である事を確信した。
このままではいつかは殺される事を悟って、
家を出る事を決心する。
宝暦11年8月満月の夜、愛馬青に別れを告げて、
江戸へ旅立って行く。
「道連れ小平」
江戸に向かう道中で道連れ小平に出会い
身ぐるみはがされてしまった。
乞食同然の格好になりながら、
実父の居る戸田の屋敷に行ったが、
国替えになって島原に行ってしまい、留守であった。
万策尽きた多助は、昌平橋から身を投げようとするところを、
神田佐久間町の炭問屋山口屋善右衛門に助けられ、
そこに奉公することになった。
「子(ね)に臥し寅(とら)に起き」て良く働いた。
給金はいらないから、捨てるようないらない物をくれれば、
それだけで良いと言った。
所変わって、実家では強引にお栄と丹三郎の婚礼を
しようとしたが、分家や村人に反対され逃げるうちに、
青の厩に来たところ、青が暴れて二人を蹴り殺してしまった。
まるで多助の仇討ちをしたような事になってしまった。
「戸田の屋敷」
炭を届けに戸田家の屋敷に行った。
偶然に島原から江戸に戻ってきた実父母、
塩原角右衛門・清(せい)夫婦に再会した。
角右衛門が言うには
「新田の角右衛門の所では乳が出ないので、
同名の私のところで預かった。
八歳の時新田の角右衛門に帰した。
礼として50両をいただき、借財を返し、
江戸に出て戸田家に仕え300石の身になれた。
これも新田の角右衛門殿のお陰である」
(多助を励ます為のウソ)と。
塩原家は潰れ多助は女、酒にくるって夜逃げしたと誤解されていた。
また、武士として炭屋の下男には倅は持っては居ないと言われ、
家を再興した時には改めて逢おうと言われ、
淋しく店に戻る多助であった。
「山口屋ゆすり」
ある日、山口屋の荷主である下野の
吉田八左衛門が急病で倒れたため、
山口屋の掛金80両を取りに、
悴の八右衛門が代わりに行くことになった。
証拠となる手紙と脇差しを持って、
八右衛門は出立したものの、
田舎者で江戸に不案内のため不安で堪らず
深川で会った故郷の知り合いに、
事の一部始終を大声で話してしまう。
永代橋を渡る時ぶつかった店者(たなもの)の男がいた。
介抱する振りをしてシビレ薬を飲ませ、
手紙と脇差しを抜き取り山口屋に先回りしたが、
手に入れる寸前多助に見破られ失敗する。
多助にこんこんと説教されて
小平はすごすごと引き下がる。
これを聞いた八左衛門は将来店を出す時には
千両の荷を出してあげると約束した。
「四つ目小町」
10年が過ぎて本所相生町に店を出し、
炭の量り売りを初め、一生懸命働いた。
ある時、多助の人柄にほれこんだ四つ目の
富商藤野屋杢左衛門・お花親子は
多助の嫁に娘お花を一緒にさせたくて、
出入りの樽買いに仲に立ってもらった。
多助がその話を聞いて、金持ちだからヤダと断った。
藤野屋は樽買いの娘なら良いのかと聞くと、
何一つ持たずに来てくれるのなら良いという。
樽買いの娘と言う事で、
四つ目一の美女お花は惚れた多助の嫁になった。
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一代で富をなした塩原太助(文化十三年没・74歳)の事跡を、
三遊亭圓朝が、明治11年に完成した
15席(吟醸注;全18編から構成)続きの人情ぱなし
上州沼田の富農塩原多助は、養父の遺言に従って、
その後妻お亀の連れ子お栄と夫婦になり、
追い出しをはかるお亀親子の迫害にたえていたが、
身の危険にも及んだために、やむなく家を出て江戸へ行き、
着想卓抜な刻苦勤労の甲斐あって、
炭屋の奉公人から独立し大身代を築くという立志伝で、
これに、お亀・お栄親子と
密通する浪人原丹治・丹三郎親子、浪々の末
江戸の主家に帰参がかなった実父塩原角右衛門・清(せい)夫婦、
道中護摩の灰を働く道連れ小平、
多助の入柄にほれこんだ富商藤野屋杢左衛門・お花親子らが
からむ。
塩原太助は、かなり注目された入物だったらしく、
江戸時代から劇化されていたが、大当たりをとった芝居は、
明治25年1月・歌舞伎座初演、五代目尾上菊五郎による
三代目河竹新七作品で、
粋な江戸つ子役者の持ち役とはがらりと変わった
質朴な人物造形が成功し、その後、六代目菊五郎・
二代目尾上松緑と継承きれている。
浪花節にも脚色され、浪花亭綾太郎の愛馬青との別れの
くだりなどは、大いに泣かせた。
圓朝は菩提寺の捜索、子孫の発見から、生地での取材など、
綿密な資料収集の努力によって、
旧来の戯作本の荒唐無稽な御都合性や因果応報の
低俗な勧善懲悪を脱した、
主人公の誠実な苦闘が、
素直な共感を呼ぶ物語になったのであろう。
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