ここまでを おさらいしておくと
時代は 昭和38(1963)年の東京
翌年の東京オリンピックを控え 高速道路などガンガン 建設中
神楽坂にある 妾 富田駒代の家 これは借家
武市浩蔵の妹 武市タキが住む 渋谷の家は 持ち家だが
武市産業の 資金繰りのために抵当に入っていました
浩蔵の正妻 武市松子が住む 本宅は もちろん持家だが
浩蔵が亡くなったことによる遺産相続の為 家の一部を売却
こんな状況で 妾駒代と 妹タキが
目黒の本宅へ 居候を決め込みました
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駒代は 浩蔵と 30年連れ添ったと言ってますので
浩蔵が 駒代といい仲になったのは 昭和8 (1933)年。
戦前です。
1923年に関東大震災が起こり、日本経済はどんどん不況にり
時代が昭和になってすぐに、日本は再び大きな試練に襲われます
それが、1927年に起こった「昭和金融恐慌」。
銀行への「預金の取り付け騒ぎ」が起きて日本中がパニックになり
国が予算を減らした緊縮財政策による物価の下落や、
関東大震災で発生した不良債権などから生じた金融不安が主な
原因と言われている。
1930年代に入ると徐々に産業が回復しだして、
商社もアジアとの繊維貿易に力を入れたり、
機械や鉱物資源、セメントなどを取り扱かったりして、日本の重工業化の発展を支えた
そんな 産業回復のときに 武市浩蔵は 波に乗る形で
金融業者 武市産業は発展したものと思われます。
ところが 1941年 太平洋戦争が はじまり
日本経済は めちゃくちゃになります
戦争により壊滅的な打撃を受けた日本経済ですが
製造業を軸に高度経済成長期へ突入。
銀行は事業会社の旺盛な資金需要に応える
メインバンク制と呼ばれる強固な関係を
事業会社との間に構築していきます
この流れに 乗れなかった武市産業は衰退ものだと思われます
浩蔵が亡くなったときには 武市産業は
火の車の状態だったということです