江戸時代 幕末 安政六年(1859年)の10月
安政の大獄 と呼ばれる幕府の政策により
攘夷派(開国反対派)を 大量に捕らえました。
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そもそもの発端は
黒船 ペリーとハリスが 「開国」と脅しをかけてきたこと。
それも 手紙や使者でなく、
担当者が目の前に来ているわけですから、
当然返事を急がなくてはいけません。
外国との交流を ほぼ閉ざした鎖国政策をしていた日本
当時の世界の情勢や 外交のことが分かる人は
徳川幕府の中にはいません
鎌倉時代から数えて600年以上も武家が政治をしてきたとはいえ、
幕府はあくまで「天皇と朝廷から政治を任されている機関」です。
ですから、こうした国の大事にはまず朝廷へお伺いを立てるべきでした。
でも、目の鼻の先に最新鋭のデカい船を突きつけられた幕府は
パニックに陥ってしまい、
この一番大事なポイントをおろそかにしてしまいます。
一応、堀田正睦(ほったまさよし・老中の一人)が京都へ向かうものの、そう簡単に勅許(天皇直々の許可)が出るわけはありません。
なんせ当時の天皇・孝明天皇(和宮のお兄さん)は大の外国嫌いで、そもそも海の見えない京都にいますから、貴族やそっち寄りの大名も右に倣って「開国なんぞしてたまるか!」という意見です。
しかしハリスの催促は止みません。
こうした中で井伊直弼は老中の職に就き 「日米修好通商条約」の
調印をしてしまいました
この条約は 不平等だと 外国事情に詳しい 攘夷派から猛反発
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孝明天皇から水戸藩に対して「お前、幕府のお目付けのくせに
何やってんだ! 早く幕府をまとめて何とかしろ!」という
密勅を出すのです。これを戊午の密勅と言います
これを 知った 幕府 井伊直弼は
大名や幕臣だけじゃなく、民衆を煽る学者ども
攘夷派を片付けないとどうにもならないと考えます
天皇からもにらまれた形、事態の解決を急ぎ、
武力で弾圧しました
それが「安政の大獄」
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これに対して 攘夷派チームが 猛反発
1860年 17人の水戸浪士と1人の薩摩浪士
天皇の許可も得ず 勝手に日米修好通商条約を結んだ
井伊直弼は けしからんと 暗殺します。
井伊直弼は江戸城の桜田門で殺されました
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この結果 江戸幕府の権威は失墜
天皇に政権を返す 大政奉還という流れとなり
明治政府が できます。
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明治政府は アメリカに対して
「日米修好通商条約は 不平等であり
国民の支持をえず 前政権が 勝手に 合意したものであり
脅されて 結ばされた条約は
国民感情が納得していないから無効だ」
などという わけのわからない 条約無視の態度はとらずw
約50年の年月をかけて アメリカと 地道に交渉を続け
明治44年になって ようやく不平等な「日米修好通商条約」の
見直しに成功しました