初代 坂田藤十郎は
正保4年(1647年) 京都の都万太夫座(現在の 南座) の座元、
坂田市左衛門の長男として 生まれた。
幼い頃から舞台に立ち、無類の稽古熱心との話が伝わるも、
30歳ごろまでの修業時代については不明な点が多い。
延宝6年(1678年)に 名姑夕霧が亡くなって僅か1ヶ月後に上演された
『夕霧名残の正月』で藤屋伊左衛門を演じて好評を博し、
役者としての地歩を固めた。
元禄6年 近松門左衛門と組んだ『仏母摩耶山開帳』で、
名優としての地位を固め、以後近松の歌舞伎作品を数多く演するようになる。
特に、元禄12年(1699年)の『けいせい仏の原』の梅永文蔵役は
興行的にも大当たりをとった。その芸風はせりふ回しがうまく、
独白を得意とした独特の写実的演出で、上方歌舞伎の基礎を作った。
それまでは踊りが中心だった歌舞伎を、
近松門左衛門と提携してせりふ劇に発展させ、
「和事」の創始者ともいわれている。
江戸の役者ではないせいだろうね
華やかな 役者絵に 描かれていないのが残念なところ
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菊池寛の「藤十郎の恋」に 登場する 藤十郎さんは
この 初代 坂田藤十郎で
冒頭 「元禄云う年号が、何時の間にか十余りを重ねた
ある年の二月の末である。」
と 書かれていて 元禄11年
坂田藤十郎 51才のころの 出来事として 描かれている
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藤十郎の恋
四条 芝居茶屋 宗清の主人 宗山清兵衛の 女房の お梶は
評判の高い貞淑な美人であったが、
かつて共に連れ舞を踊った幼馴染の藤十郎に人知れぬ
思慕の情を抱き続けていた。
藤十郎は 近松門左衛門を招いて、新しい芝居の脚本を依頼した。
かくて近松の書いた「大経師昔暦」は、大経師女房おさんと
手代茂兵衛が密通の挙句処刑された物語である。
藤十郎は、人妻に恋を囁く難解な演技を、如何に我がものとするかに
心を砕いていた。
藤十郎は 部屋に入って来たお梶を見て、
突然熱烈な恋慕の情を打明けた。
ご存じ 「お梶」さんへの 恋の物語でございます