Quantcast
Channel: 桃象の観劇書付
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2923

【用語解説】 唐人お吉

$
0
0

 「本当にコンさまがそうおっしやったのですか。
 このきちにもう玉泉寺には来るなと。」

 「本当です。でも、おキチさん。
 コンスル(領事)は あなだがキライになったのではない、
 あなたのタメを思って言ったことです。


 日本語で、どう表現するか、
 そう、生木を引き裂くというコトバがありますね。
 

  おキチさんとツルマツさんが恋仲であると、
 ミスター・ハリスは知ってしまったのです。
 とにかく今夜はこのまま帰ってください、おキチさん」

 

 「たとえどのようなお気持でおっしゃったにせよ、
  きちはこのまま帰るわけにはまいりません。
  玉泉寺へ通い、
  コンさまにお目にかかることが私のつとめなのですもの」

 

 「弱りましたネ。でもコンスルの気持は変りませんよ」

 

  ヘンりー・ヒュースケンと お吉との押し問答が
  下田市郊外柿崎村・玉泉寺前の石段下で続けられたのは、
  安政四年(1857)5月25日宵のことである。

  ヒュースケンは米国の初代日本駐在総領事に
  任じられたタウンセンド・ハリスに仕える
  書記兼通訳官だった。

  
  お吉が初めて玉泉寺の門をくぐり、
  ハリスにお目見えしたのが二十二日、

  わずか三日しか経っていないのに
  事実上の解雇を言い渡されたのである。

  さらに、前日の二十四日には給金のほかに
  支度金として二十五両の大枚を
  奉行所から支給されている。  

 

  自分をハリスの許に差し出すについて
  奉行所役人の森山多吉郎は、
  唐土のに王将のに事を持ち出し、

  洋妾になって国を救ってほしいと頭を下げた。

 

  「それにな」と、
   森山はお吉の泣きどころを衡いてきた。

 

   「お前が承知してくれたなら、
   鶴松には苗字帯刀を許し、
   御作事大工頭の組下にもしようと
   お奉行も言っておられる」

 

   恋仲である船大工の鶴松は、
   かねがね帯刀を許される身分への憧れが強く、
   口癖のように
   「刀が差してえ」と言ってはお吉を困らせていた。

   その上、自分には支度金二十五両のほかに
   一年の給金百二十両をくれるという。

 

   日ごろ船頭たちの汚れ物の洗濯や繕い物をして
    母親のきはと生計をたてているお吉にとって、
   一生涯見ることのない大金である。
 

    お吉の気持が揺れた。
 

   その矢先に当の鶴松が訪ねて来た。

 

  「吉ちゃん、この通りおいらからも頼む。
   なに、一年間といえば永えようでも
   考えようで短くもならあ。

   目をつむってがまんしてりゃすぐに終るさ。
   おいらも晴れてお前と一緒になれる日を待っているぜ」

 

  「本当に待っていてくれるんだね。
   このからだが汚れていてもいいんだね」

  こうして玉泉寺の門をくぐるようになり、
  四日目の宵なのである。

  ハリスと夜を過さなくてもよいと聞いて嬉しくはあったが、
  しかし途方にくれるお吉でもあった。

 

  その後のお吉に対する世間の目は、
  予想以上に冷たく非情だった。

  船頭たちからの仕事も
  お吉一家には回ってこなくなり、
  網元の家での宴席に侍る仕事もめっきりと減った。

 

  当初はさほど生活に困ることもなかったが、  
  やがて困窮した。

  六月と七月にも給料は貰ったが、
  月十両の筈が六月には七両、七月は五両。

  一応大金ではあるが、あぶく銭の性格の金で、
  自分たちも派手に使っただろうし、
  周囲からたかられもしたに違いない。

  七月には母のきはと姉婿宗五郎の連署で
  奉行所宛に嘆願書を差し出した。

  世聞が受け入れてくれないので
  生活にも困るというわけである。

  翌月、三十両が下賜されたが、
  これは手切金で、奉行所とも縁が切れた。

  世間の目は相変らず冷たく、
  「洋妾(らしゃめん)」と刻印された
  十七歳のお吉には辛いことであった。

  その後、お吉の生活は転々とする。

  望郷の念にかられたお吉は
  傷心を癒やそうと生れ故郷の知多郡内海にも
  足を踏み入れたが、

  『らしやめん』『唐人お吉』と、
  子供たちにまではやされた。

  恋人の鶴松と横浜で同棲もしたが、
  生れ故郷での蔑視には
  耐えられないものがあったであろう。

  幼ない日を過した内海の白砂も青松も、
  心を慰める手段にはなり得なかった。

  

  お吉は三島で芸者に出、
  さらには稼いだ小銭を元手に
  下田で『安直楼』という名の小料理屋を開いたが
  永くは続かなかった。

  屋号からお吉のふてくされた気持が察せられる。
  アルコールに溺れた彼女には
  「きすぐれ」のあだながつけられた。

  やがてせっかくの家や家財も借金のかたに取られ、
  お吉は病に倒れる。

 

  明治二十三年(1890)三月二十七日、
  身も心もぼろぼろになってお吉は、
  稲生沢川の淵に身を投げて死んだ。
  この淵には『お吉ケ淵』の名が残っている。
  五十歳だった。

 



  ということで 

  3月27日 つまり 今日が お吉の命日であり
 

  下田では 「お吉まつり」が  おこなわれます

 

 

   藤乃かなの 「お吉物語」の

  DVDも ございます

 

  ↓ 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2923

Trending Articles