善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある
無宗派の単立寺院で、
住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。
日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、
善光寺聖の勧進や出開帳などによって、
江戸時代末には、
「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。
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江戸時代末期ぐらいには
善光寺の参拝者は毎年20万人程、
その規模は伊勢神宮に次ぐ程だったと言う事です。
その善光寺詣りも御師と呼ばれる
今で言うツアーコンダクターの様な方々が企画し、
宿房(寺院での宿泊)での料理、おもてなしや、
普通では出来ない様々な体験を修行と言う形で
されてたと言う事です。
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人が集まるところには 盛り場もできます
伊勢神宮の 手前にも 大きな 遊郭ができたように
善光寺から南へ延びる中央通りの中ほどから
東側の権堂には、遊郭・水茶屋があって
花街として江戸時代から繁盛したそうです。
「権堂」とは 当時は 正式名称ではなくて
「仮堂」の意で一時期善光寺本尊の 代わりのお堂
という意味合いなんだとか。
お堂にお参り と称して
いいことする男が いたんだろうなと 想像させる名前です
明治11年になって 権堂地区にあった 花街を
すこし 東へ移動させて 遊郭を 作ったといいます
鶴賀遊郭として
移転となり 公許の妓楼は40軒以上あったそうです。
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そんな 権堂町
国定忠治は、実際に天保7年(1836年)篭っていた
赤城山を出奔し、大戸の関を破り草津街道を通って、
当時権堂町で水茶屋を営んでいた
同郷上州の友人・島田屋伊伝治の元を訪ねた
忠治が 権堂町はずれの庚申塚に差し掛かった時
盗人に金を奪われた老百姓の 喜右衛門を助けた。
年貢の金に困り娘を 権藤の山形屋に女郎として
売った大枚百両を奪ったのは山形屋藤造の子分だと知り、
喜右衛門の甥になりすまし、乗り込んでいく。
そう 「忠治と山形屋」の舞台でございます
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お芝居「忠治と山形屋」
国定村やら 赤城山やら 権堂宿やら
位置関係がイメージしやすいように マップに印をしてみました。
信州 権堂の宿場、
善光寺の門前で在り 人が多く 紛れ込みやすいこと
関東地区の取り締まり 関八州から 微妙に外れること から
国定忠治も 例外ではなく 追われ旅の者が しばしば
身を隠すために やってきていたのだとか・・・
忠治親分さん 庚申塚で 山形屋に騙された とっつぁんに出会い
山形屋に 乗り込むんですね