大阪の 新町は、
江戸の吉原 京の島原 と 並んで 三大遊郭のひとつとされ
元禄年間には 800名を超える遊女が いたんやそうでございます。
御存じ それは恋 梅川忠兵衛 の 舞台でございます
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現在 大阪に住んでる人でも どこにあったのか
わからない人も 多いとは思うのですが
地図の矢印で示した ところです
新町1丁目 新町2丁目 と 町名として残っておます
現在でいうと 大阪 心斎橋から 西へ進み
西心斎橋 アメリカ村と呼ばれるところを まだ すすむと
阪神高速道路が 上に走ってます。
そこが、、古くは 西横堀川 という川でして
その川 の 西側一帯が 新町遊郭だったわけです。
現代の キタ ミナミ という 繁華街とは 違う場所です
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江戸の吉原遊郭では最高位の遊女のことを花魁といったそうですが、
京や大阪では太夫といいました。
夕霧は京都嶋原にあった扇屋の太夫でした。
嶋原にはかつては置屋が約50軒、揚屋が約20軒あったそうですが、
今は揚屋の『角屋』が一軒残っているだけです。
置屋とは遊女を雇いいれる店のことで、遊女は置屋で生活しました。
揚屋とは客が遊女と遊ぶ場所のことです。
のちに扇屋が大阪の新町に移転したので、夕霧も新町の太夫になりました。
夕霧大夫はたいへんな美人で芸事にも秀でていましたが、
20代でその短い生涯を終えました。
夕霧の亡くなったのが 1月7日
今でも その日「夕霧忌」として 行事が行われたり
俳句の季語にもなっています
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「新町」 の イントネーション
東京の「新橋」 と 同じように言ってしまう人も多いのですが
関西人の正しいイントネーションは
反町さんの 「ソリマチ」 と 同じ具合です。